Self-as-Weという言葉は、あまり聞き慣れないかもしれませんが、Natural
Society Labとこのディスカッションにとってとても大切な概念ですので、はじめにかんたんにご説明させていただきます。Self-as-We、日本語では
「われわれとしての自己」と表現します。
一般的に、自己とは、個人(Individual)、すなわちそれ以上細分化できない存在としての「私」のことを指すというのが従来の認識ではないでしょうか。
ところが、Self-as-Weの自己観は、それとは異なる考え方をします。
「わたし」も「わたし以外」も含まれるつながりや関係性全体を指す「われわれ」こそが自己である、というのがSelf-as-Weの自己観です。
具体的な例で考えてみましょう。
「自転車に乗って通勤する」という行為を想定した場合、従来の自己観では、私が、道具である自転車を使いこなして移動すると考えます。
ところが、Self-as-We、「われわれとしての自己」では、「わたし」や自転車、道路、それを管理してくれている人たち、交通ルール…等々、出勤という行為を支える
すべての人・モノ・コトを含むシステムを「われわれ」=自己と捉えます。
そして、「わたし」を含む「われわれ」のすべての要素は、「われわれとしての自己」から行為の一部を委ねられている(この場合、「わたし」は、サドルに腰かけ、ハンドルを握り、足を交互に動かして自転車を前進させる…ということを委ねられている
)と考えます。
チームスポーツを例に考えると、もっとわかりやすいかもしれません。チームという「われわれとしての自己」に委ねられて「わたし」はプレイをしています。
「わたし」が得点をあげた場合、それは「わたし」の活躍であると同時に「われわれとしての自己」=チームの活躍でもある。
こうした感覚は多くの方にとって比較的なじみ深いものではないでしょうか。この考え方を広げて、「わたし」の所属するチームだけでなく相手チームも審判も観客も、コートやゴールなどのモノも、ルールも、ゲームを支えるすべての人・モノ・コトを含むシステムを「われわれ」=自己と考える。そのときに、「わたし」と「われわれ」のよりよいあり方とはどういう状態か。
「われわれとしての自己」という、たくさんの行為主体(エージェント)が含まれるシステムのなかに、AIやデジタルツイン、ロボットなど、新たなエージェントが参加してきたときに、
「われわれ」のあり方はどう変わるのか。
そうしたことを議論し、よりよい未来社会のための技術を構想しようというのが、このラボとディスカッションの目的です。
※Self-as-Weに関する京都大学とNTTの共同研究に関するリリースはこちらをご覧ください。
新しい技術と哲学をめぐる領域横断的なディスカッションが
はじまります。
それぞれのプレゼンターが、何を思い、
どんなことを考えてここに集まったのか。
自己紹介と、これからのディスカッションの手がかりとなる
いくつかのコンセプトが提示されます。
・社会、世界、人間、自己…に関する意識が変わる可能性がある
・西洋からの借り物でない人間観、自己観が必要
・「われわれ」の生、ライフ、生命、人生、生活…が不可逆的に、知らないうちに変わる可能性がある
・そういう時代にいるからこそ共同研究をしたい
Self-as-We(「われわれとしての自己」)の根幹には、
インケイパビリティ(「できなさ」)という概念があります。
そして、その対極にあるのがケイパビリティという、
自足性(何でも自分でできると思うこと)の神話です。
そもそも、インケイパビリティとは何なのでしょうか。
そして「できなさ」がひらく未来の可能性とは
どのようなものでしょうか。
・西洋近代の人間観=人間とはできる存在
・自足性(自分でなんでもできる)という神話
・「他人はいらない、自分でできる」をエンパワーするようなテクノロジーの危険性
・どういうIOWNがいいか。どういうスマートシティがいいのか
・IOWNが「われわれとしての自己」を可視化する可能性
・資本主義のなかでスタートアップはケイパビリティの権化
・ケイパビリティとインケイパビリティのバランスが重要
・近世から近代の転換期、西洋では「人類のOS」が変わりケイパビリティがブーストされた
・東洋的思想の欠如
・自我とは一種の勘違い
Self-as-We(「われわれとしての自己」)の
「われわれ」には誰・何が含まれるのか。
それはどのような契機で「われわれ」になるのか。
ときに歴史をさかのぼりながら、「われわれ」に関する
時空を超えた自由な議論が縦横無尽に展開されます。
・「われわれ」をたばねるものは何か
・①共通の目的・利害、②事実、③規範・約束事…
・公園の「われわれ」、行きずりの「われわれ」
・いろいろな「われわれ」がある
・インケイパビリティを前提とする「われわれ」は自足的ではない。開いている。
・次々と「われわれ」ができる
・今日、1ヶ月、1年間、何十年、一生…
・「われわれ」はどんどん広がっていき得る
・サグラダ・ファミリアは「完成しちゃいけない」
・ガウディの「われわれ」は一代で完結していなかった
・先祖・子孫を数える言葉
・自分から9代先は「雲孫(うんそん)」。その次は「雲孫の子」
・日本人にとっての「われわれ」のサイクル
Theme3のディスカッションでは、
Self-as-We(「われわれとしての自己」)の「われわれ」には、
多様な行為主体(エージェント)が含まれることを見てきました。
Theme4では、AIなどの例をとりあげて、
「われわれ」の新たなエージェントにどのような「倫理」を適用すべきか、
そうした新たなエージェントが加わった「われわれ」の未来がどうなるか、
予測することはできるのか…等について議論を深めます。
・「われわれ」は人間だけではない
・「われわれ」の中には多種多様なエージェントがいる。すでに入っている
・自律性をもった機械が新たなエージェントとして入ってくる
・そのなかで限られたものだけが権利をもつものとしてきた
・AIがエージェントになったときに今の法体系では対処できない
・AI・自律した機械に対する倫理は動物の倫理の延長線上にあるのか
・生物・生命ではないものに対する倫理をどう考えるか
・AIも「われわれ」のメンバーシップをもつ
・AIにどのような権利や尊厳を与えるか、どのように人間と差異化をはかるか
・テクノロジーは社会的ニーズがあるときにしか出てこない
・発明されたあとに、ほかの技術等との掛け算で、思わぬ方向に行くことがある
・AIも、マシンパワーの向上、リソースの投下、他の技術の掛け算によって、想像していないかたちで社会を変えていく可能性がある
・歴史からの学びは、未来は予測不可能であるということ
THEME.4では、「未来は予測不可能」ということが話し合われました。 未来は予測不可能。それでも、多様な行為主体(エージェント) を含む「われわれ」のWell-beingを実現するには どうしたらいいのかー。 Prototyping the Future 「#0/NATURAL SOCIETY LAB始動」、 いよいよ最終回です。
・成長とは自己中心性から離れること(USの大学におけるリーダーシップの授業)
・自己中心性から離れることとWell-beingは無関係かもしれない
・個人の満足度は、どういう人がまわりにいるかということ込みで決まる
・組織のなかにSelf-as-We的な人がいるかいないかにも左右される
・自己中心性を離れるということと「われわれ」が前景化することは同じではない
・「われわれ」が前景化しないと、自己中心性を離れたとしてもWell-beingは向上しない
Prototyping
the Future
様々な有識者との議論を通じて、
NTTが未来の人間らしさや社会像について考えていく。
Deep Dive into "Natural"
#2 ナチュラルと人間らしさ
ナチュラルな生き方
とは。ナチュラルな
社会とは。
Deep Dive into "Natural"
#1 データサイエンスとウェルビーイング
データサイエンスと
ウェルビーイングで
ナチュラルな社会へ
ウェルビーイングとデータサイエンスに関する研究と実践を重ねる第一人者のお二人が、2つのテーマを応用して実現するナチュラルな社会について、縦横無尽に語り合いました。
Decoding the Humanity
#1 仕事と健康
ウェルビーイングな
未来を目指して
今回はNTTコミュニケーション科学基礎研究所・上席特別研究員の渡邊淳司をゲストに迎え、「未来の働き方と健康」を探っていく。
Deep Dive into "Natural"
#0 NATURAL SOCIETY LAB始動
新しい技術には、
新しい哲学が
必要だ。
哲学、健康・医学、歴史、コミュニケーション科学の専門家が集まり、「未来のプロトタイピング」となるようなディスカッションを行いました。
Prototyping
the Future
様々な有識者との議論を通じて、
NTTが未来の人間らしさや社会像について考えていく。
Roundtable
with Gen Z
未来を生きる主役である若者たちとともに、
「これからの人間らしさ」を考える鍵となるキーワードについて語り合う
Event
Archives
他社企業やパートナーと「これからの人間らしさ」を考えるイベントを開催。次の未来や社会像へのキーワードときっかけを探ります。
Self-as-Weという言葉は、あまり聞き慣れないかもしれませんが、NATURAL SOCIETY LABとこのディスカッションにとってとても大切な概念ですので、はじめにかんたんにご説明させていただきます。Self-as-We、日本語では
「われわれとしての自己」と表現します。
一般的に、自己とは、個人(Individual)、すなわちそれ以上細分化できない存在としての「私」のことを指すというのが従来の認識ではないでしょうか。
ところが、Self-as-Weの自己観は、それとは異なる考え方をします。
「わたし」も「わたし以外」も含まれるつながりや関係性全体を指す「われわれ」こそが自己である、というのがSelf-as-Weの自己観です。
具体的な例で考えてみましょう。
「自転車に乗って通勤する」という行為を想定した場合、従来の自己観では、私が、道具である自転車を使いこなして移動すると考えます。
ところが、Self-as-We、「われわれとしての自己」では、「わたし」や自転車、道路、それを管理してくれている人たち、交通ルール…等々、出勤という行為を支える
すべての人・モノ・コトを含むシステムを「われわれ」=自己と捉えます。
そして、「わたし」を含む「われわれ」のすべての要素は、「われわれとしての自己」から行為の一部を委ねられている(この場合、「わたし」は、サドルに腰かけ、ハンドルを握り、足を交互に動かして自転車を前進させる…ということを委ねられている)と考えます。
チームスポーツを例に考えると、もっとわかりやすいかもしれません。チームという「われわれとしての自己」に委ねられて「わたし」はプレイをしています。
「わたし」が得点をあげた場合、それは「わたし」の活躍であると同時に「われわれとしての自己」=チームの活躍でもある。
こうした感覚は多くの方にとって比較的なじみ深いものではないでしょうか。この考え方を広げて、「わたし」の所属するチームだけでなく相手チームも審判も観客も、コートやゴールなどのモノも、ルールも、ゲームを支えるすべての人・モノ・コトを含むシステムを「われわれ」=自己と考える。そのときに、「わたし」と「われわれ」のよりよいあり方とはどういう状態か。
「われわれとしての自己」という、たくさんの行為主体(エージェント)が含まれるシステムのなかに、AIやデジタルツイン、ロボットなど、新たなエージェントが参加してきたときに、
「われわれ」のあり方はどう変わるのか。
そうしたことを議論し、よりよい未来社会のための技術を構想しようというのが、このラボとディスカッションの目的です。
※Self-as-Weに関する京都大学とNTTの共同研究に関するリリースはこちらをご覧ください。
そもそも「ナチュラル」とはなにか。また、私たちの生き方や社会をどう変えていくのか。技術と哲学のあいだで「ナチュラルと人間らしさ」に関する考えを深めます。