趣旨と実施概要
Roundtable with Gen Zは、
未来を生きる主役である10人の
大学生とともに、
「これからの人間らしさ」を考える
鍵となるキーワードに
ついて、
「今」と「これから」を語り合う
取り組みです。
若者たちの暮らしは今どのように
変わり、
そこには未来に向けたどんな望みや葛藤が存在している
のでしょうか?明確な答えを出すことを目指す取り組みではありませんが、
個性をもった一人一人の若者たちの言葉にこもった多くの問いや想いが、これを読む皆さんにも届くことを願ってその記録を残します。
NSL 若者研究所 研究員
チホ
21歳。
自分をオノマトペで表すと
「きょろきょろ」
NSL 若者研究所 研究員
ケイスケ
20歳。
自分をオノマトペで表すと
「ふにゃふにゃ」
NSL 若者研究所 研究員
カズキ
20歳。
自分をオノマトペで表すと
「ごちゃごちゃ」
NSL 若者研究所 研究員
ヨウタ
22歳。
自分をオノマトペで表すと
「とうとう」
NSL 若者研究所 研究員
ジュンヤ
22歳。
自分をオノマトペで表すと
「ふわふわ」
NSL 若者研究所 研究員
ミヅキ
20歳。
自分をオノマトペで表すと
「ニヤニコ」
NSL 若者研究所 研究員
ワカバ
21歳。
自分をオノマトペで表すと
「ズカズカ」
NSL 若者研究所 研究員
リコ
22歳。
自分をオノマトペで表すと
「ころころ」
NSL 若者研究所 研究員
リリカ
23歳。
自分をオノマトペで表すと
「あっちこっち」
NSL 若者研究所 研究員
モエ
22歳。
自分をオノマトペで表すと
「じわじわ」
身体に関する課題や可能性のなかで本当に重要なものは?
テクノロジーが進化する未来に向けて、私たちは身体にどんな変化を望むだろう?どんな身体の生活シーンやアイディアを描けるだろう?
今回は、第三回の「身体の今」の議論を受け、若者たちが
「こうなって欲しい」と望む「身体の未来」に関する議論を辿ります。
「身体」の未来・望み
1. 「努力」から取りこぼされない身体
コンプレックスは
努力でどうにかなる?
自分はこのまんまだけど、その上で、もっとこうしたいという思いはあります。
全体は、まぁ、いいけど、歯並びが悪くて、それは気になるとか。
身体に関する悩みがすごく具体的になっている感じがします。私の場合は、ふくらはぎがヒラメ型なのが嫌だな、、、とか。そして、具体的な部分の悩みについてはだいたい対処法がある。「綺麗な小鼻になるためには」とか。だから、部分に悩みがあっても、全体は嫌にならないのかもしれないですね。
今回の議論全体を通して印象的だったのは、複数の若者から、
「現状の自分の体に大きな不満を持っていない」
という声があがったことです。
背景を掘り下げていくと、自分の身体にコンプレックスがあったとしても、
それを具体的な部分の問題として捉えることで、全体の価値とは切り離して
考えているということが分かりました。また、部分的なコンプレックスの
多くは、今や技術を活用しながら努力でどうにかなるものとして捉えられて
いるようです。
そのため、「自分の全体」を認めることができている若者たちにとっては、
もっとこうなりたいという理想があったとしても、それが自己否定に
つながることはないようです。
一方、努力によって身体を調整していくことが前提となっている社会では、
それについていけない人はどんどん自己肯定感が低くなって、
二極化が進んでしまうのではないか?という声もありました。
努力信仰の功罪
美容とか身体についての努力は休むことはできても、やめることはできない感覚があります。努力して頑張ることに疲れちゃうっていう気持ちはもちろんあって、いつも努力し続けることはできないけど、本当に努力することをやめてしまったらどこまでも落ちていってしまうような感じがするから。努力が認められる世の中だからこそ、努力ができなくなったり諦めたら上がってこれなくなっちゃう。
身体についてのコンプレックスを技術の習得や努力でどうにかできる問題として捉える努力至上主義の風潮が行き過ぎてしまうと、思うような結果が出ない人や、上手く努力ができない人を否定する息苦しい社会になってしまうかもしれません。多くの若者にとって、持って生まれたものの良し悪しではなく、努力が自己肯定感の裏付けになっているからこそ、社会全体が過度な努力至上主義にのみ込まれないように注意をする必要がありそうです。
若者たちからは、
「もっと確実に結果が出る努力の方法が確立されて欲しい」
「結果が出ている努力だけではなく、努力の過程自体が認められる
世界であってほしい」という声が挙がっていました。
望むのは、「努力」から取りこぼされる人がいない未来です。
これから先、メイクの方法とかファッションのセオリーとか、身体に関する色々なことの方法論が更にオープンになることは大歓迎だけど、そのことによってかえって完全に取り残されてしまうような感覚とか、自分を全否定するような気持ちになったりする人がいない社会にしたいです。
2. もしも望む身体が
均質的なものだとしたら
自分らしさと、
奇抜であること
今やマスクで顔の下半分が隠れていて、顔の上半分は皆似たような髪型。顔で個性的な部分はもはや殆ど目だけです。服もファストファッション、高価格ならブランドモノと、誰もが同じようなものを身に付けている。ファッション雑誌とかも同じような髪型をした同じような服をきたモデルが同じようなポーズで写ってるんですよ。だから身体の未来を考えた時、そもそも僕たちは(身体に)個性なんて求めてないのかなっていう気もします。
整形とかも全然珍しい話ではなくなってきていると思うんですけど、目の整形を検討している友達が、「整形ってそれを担当する医者の好みの形になることがあるらしいよ」と言っていたのが印象的でした。そもそも、思い描く理想の形っていうのは大体が一緒だから、自分の見た目を完全に自由に選べる世界になったらみんな同じ顔をしてるかもしれないですね。
技術と努力によって、自分が理想とする身体にある程度近づけるようになった現代。多くの人が骨格診断やパーソナルカラー診断などを活用して、他者から提案されたスタイルを取り入れていく中で、「みんなの描く理想やなりたい身体が均質化しているのではないか?」という意見もありました。「個性」を大事にするということはみんなが受け入れているように思える社会の中で、若者は個性についてどのように考えているのでしょうか?
自分らしいファッションをしたいとか、楽しみたいとかいう気持ちはあるけど、今は押さえておくべき身だしなみの領域が大きくなって、ファッションの領域を侵食しているような感じかも。「自分に似合う服を着る」というところまでが身だしなみで、その上でのファッションを楽しむというような。
社会の中でマナーとして最低限合わせないといけないスタイルを身だしなみの領域として、それがどんどん広がっているとしたら、自由に自分の個性を出せるファッションの領域は少なくなっていると考えることができるかもしれません。好きな服ではなく、似合う服を着ることが、清潔感のある服を着ることと同じ様に身だしなみとして求められる社会になると、装いで個性を出すことはハードルが高くなりそうです。
個性とは、
その人自身が
心地よいと思う
境界線のこと
議論を進めて行く中、若者の間から「個性とはたとえ外から見えなかったとしても、自分が感じられていたら成立するのではないか?」という声があがりました。どうやらここに若者が考える個性や自分らしさをひもとく上でのヒントがありそうです。
たぶん、自分が満足のいく個性のレベルで十分なんですよ。それが結果的に周りから見たときに奇抜ではないというだけで、そこに個性はあるんだと思います。例えば他人と同じ服をきていても私は別に気にならないです。自分の髪型やメイクと組み合わさればそれは個性だって思える。
外から見ると同じ服や普通の格好だったとしても、アイテムやシーンとの組み合わせや、自分の意志でそれを着るという選択の中に個性や自分らしさがあると捉えることもできるのかもしれません。
こうした意見から、若者たちにとって個性を大事にするということは、必ずしも人と違うことや、目立つことが重要なわけではないということが見えてきました。
「個性」と「個性的」は違うんじゃないかと思います。「個性的」は人から見て変わっていたり違いがあるということだけど、「個性」は、その人自身が感じるもの。自分が心地よいと思う境界線のこと。「個性」を大切にできていたら、「個性的」でなくてもいいのかなって。
「多様性のある社会をつくる」「個性を大事にする」世の中にあふれるそんなメッセージにふれているうちに、私たちは、つい、人と違う個性的な存在であることが求められているように思い込んでしまってはいないでしょうか?
本当に大事なのは自分にとっての「個性」です。外からは一見多様性に乏しい集団に見えたとしても、ひとりひとりが自分にとっての「個性」を大切にできたら全く問題はないと言えるのかもしれません。このように世の中の「個性」と「個性的」の認識のすれ違いがあることによって、「もっと個性的にならないと」「自分には個性がないのかもしれない」と悩まされている若者は少なくないように思えます。そんな現状に対して、若者が望むのは、ひとりひとりが、自分にとって心地の良い境界線を引ける未来です。
「人と同じか、違うかどうか」それ自体を考えなくてよい社会が理想かもしれないですね。
理想の均質化は
問題ではない
理想が均質化するというのも、問題みたいに思えるけど、その人にとって問題と認識されていない限りは問題ではないと。選択肢が少なかったり見えていないからそれを理想と思っているだけということもあるかもしれないけど、それだって例えば日本から出ず、その世界の中にいる限りは周りの人もそう思っているのだから何も問題ないのではって。
理想がある程度均質化しているからこそ、自分のスタイルを選びやすいというのもあると思う。僕のなかでは自分の「好き」っていう感情もあくまで手探りの仮説で、そこに完璧な自信はないけど、だからこそ、誰かにいいねと言われたり、他の人の理想や好きと響き合って、自分の好きが信じられる。みんながみんな、全然違う好きや理想を持っても、それを本当に強く感じられるものなのかな。
「個性」は人と違うことではなく、
自分の心の中で感じるものだと考えると、身体の理想が均質化することについて、それほど否定的に捉える必要はないのかもしれません。
自分と他人の境界線を引いた上で、取り入れられる範囲で提案されるスタイルを取り入れていく。そうすることで、自分が本当に好きなものが見えてきて、個性が形づくられていく。
そんな未来の可能性が見えてきました。
そんな未来の可能性が見えてきました。後編では、テクノロジーの進化などを背景に、身体の感覚はどのように変わっていくのか?
若者が考えた未来の生活シーンのアイディアを交えて望む未来について議論を深めていきたいと思います。
Prototyping
the Future
様々な有識者との議論を通じて、
NTTが未来の人間らしさや社会像について考えていく。
Deep Dive into "Natural"
#2 ナチュラルと人間らしさ
ナチュラルな生き方
とは。ナチュラルな
社会とは。
Deep Dive into "Natural"
#1 データサイエンスとウェルビーイング
データサイエンスと
ウェルビーイングで
ナチュラルな社会へ
ウェルビーイングとデータサイエンスに関する研究と実践を重ねる第一人者のお二人が、2つのテーマを応用して実現するナチュラルな社会について、縦横無尽に語り合いました。
Decoding the Humanity
#1 仕事と健康
ウェルビーイングな
未来を目指して
今回はNTTコミュニケーション科学基礎研究所・上席特別研究員の渡邊淳司をゲストに迎え、「未来の働き方と健康」を探っていく。
Deep Dive into "Natural"
#0 NATURAL SOCIETY LAB始動
新しい技術には、
新しい哲学が
必要だ。
哲学、健康・医学、歴史、コミュニケーション科学の専門家が集まり、「未来のプロトタイピング」となるようなディスカッションを行いました。
Prototyping
the Future
様々な有識者との議論を通じて、
NTTが未来の人間らしさや社会像について考えていく。
Roundtable
with Gen Z
未来を生きる主役である若者たちとともに、
「これからの人間らしさ」を考える鍵となるキーワードについて語り合う
Event
Archives
他社企業やパートナーと「これからの人間らしさ」を考えるイベントを開催。次の未来や社会像へのキーワードときっかけを探ります。
Self-as-Weという言葉は、あまり聞き慣れないかもしれませんが、NATURAL SOCIETY LABとこのディスカッションにとってとても大切な概念ですので、はじめにかんたんにご説明させていただきます。Self-as-We、日本語では
「われわれとしての自己」と表現します。
一般的に、自己とは、個人(Individual)、すなわちそれ以上細分化できない存在としての「私」のことを指すというのが従来の認識ではないでしょうか。
ところが、Self-as-Weの自己観は、それとは異なる考え方をします。
「わたし」も「わたし以外」も含まれるつながりや関係性全体を指す「われわれ」こそが自己である、というのがSelf-as-Weの自己観です。
具体的な例で考えてみましょう。
「自転車に乗って通勤する」という行為を想定した場合、従来の自己観では、私が、道具である自転車を使いこなして移動すると考えます。
ところが、Self-as-We、「われわれとしての自己」では、「わたし」や自転車、道路、それを管理してくれている人たち、交通ルール…等々、出勤という行為を支える
すべての人・モノ・コトを含むシステムを「われわれ」=自己と捉えます。
そして、「わたし」を含む「われわれ」のすべての要素は、「われわれとしての自己」から行為の一部を委ねられている(この場合、「わたし」は、サドルに腰かけ、ハンドルを握り、足を交互に動かして自転車を前進させる…ということを委ねられている)と考えます。
チームスポーツを例に考えると、もっとわかりやすいかもしれません。チームという「われわれとしての自己」に委ねられて「わたし」はプレイをしています。
「わたし」が得点をあげた場合、それは「わたし」の活躍であると同時に「われわれとしての自己」=チームの活躍でもある。
こうした感覚は多くの方にとって比較的なじみ深いものではないでしょうか。この考え方を広げて、「わたし」の所属するチームだけでなく相手チームも審判も観客も、コートやゴールなどのモノも、ルールも、ゲームを支えるすべての人・モノ・コトを含むシステムを「われわれ」=自己と考える。そのときに、「わたし」と「われわれ」のよりよいあり方とはどういう状態か。
「われわれとしての自己」という、たくさんの行為主体(エージェント)が含まれるシステムのなかに、AIやデジタルツイン、ロボットなど、新たなエージェントが参加してきたときに、
「われわれ」のあり方はどう変わるのか。
そうしたことを議論し、よりよい未来社会のための技術を構想しようというのが、このラボとディスカッションの目的です。
※Self-as-Weに関する京都大学とNTTの共同研究に関するリリースはこちらをご覧ください。
そもそも「ナチュラル」とはなにか。また、私たちの生き方や社会をどう変えていくのか。技術と哲学のあいだで「ナチュラルと人間らしさ」に関する考えを深めます。